断片2「眠れる女神」

 熟れた仙桃のかぐわしさの中を歩いていると、各務柊子は、さすがに名残惜しい気持ちになっていた。
 自分はこれで、崑崙山を下りる。もう一度、ここに来ることはあるのだろうか。

 桃の林を抜けると、正面に下山道、右手は切り立った崖になっていた。
 見送りは、碧霞元君ひとりだ。
 崖から下界を見下ろすと、雲の切れ間に、ごく小さく、かすんだ人里が見えた。
「仙人はここから飛び降りて下界に行くんだけど、どうする? やってみる?」
「お願いだから、歩いて帰らせて」
「つまんないこと言う子ね。……あら?」

 下山道のほうに人がいた。

 やっと人がひとり通れるほどの、砂礫の道。
 そこを徒歩で登ってくる、何者かの姿があった。

 巨大な鎌を、杖のようについて登ってくる。
 真っ黒い革製の鎧を、ぴったりと身体に貼りつけている。
 その鎧は、胸元や太ももがむきだしになった、およそ実用的とは思えないものだ。
 女だった。

 鎌を持った黒衣の女。ひきしまった身体と、身のこなしから、ただ者でないことが察せられた。

 その女が、崑崙山を登りきり、道のとだえる場所で立ち止まった。……つまり、各務柊子と碧霞元君に、少しの距離を離して対峙した。

「…………!? 各務柊子がこんな場所に……」
 黒衣の女が、柊子を見て愕然としている。

「柊子、有名人ね」と碧霞元君。
「この妖気。これは」と柊子。
「女怪よ、あれは」
「最近ではダークロアというんだ」
「柊子、卒業試験を出します」
「聞いてないぞ」
「あの女怪を追い払ってちょうだい。あなたが学んだこの仙域に、ケガレを持ち込ませないように」
「……わかった。いいだろう」

 黒衣の女剣士が大鎌をふりかぶり、
 いきなり投げつけてきた!

 巨大な三日月の刃が回転しながら各務柊子に襲いかかる!
 だが、柊子には――

 コマ送りのように遅く見えた。

 すさまじい勢いで回転する竿柄つきの三日月刃。各務柊子は目を細めて、つまらなそうに、その刃の腹を裏拳ではじいた。

 黒い女剣士が突進してきていた。はじき返された大鎌を空中でつかみとり、着地と同時に竜巻のような横薙ぎをはなった。各務柊子は紙一重で避ける。
 各務柊子は、ひきしめた脇から、ドリルじみた高回転の拳突きで相手の頭部を砕きにかかる!
 しかし。
 その拳はまるで、ホログラムを殴ったかのように敵をすり抜けた。

 黒い女剣士は突進の勢いを殺さぬまま柊子の脇を通り抜けた。最初から柊子を相手にはしていなかった、そんな勢いだった。女は桃林に突進し、実のついた一枝を素早く刈り取った。
 そして枝を受け止めると、各務柊子を一瞥して、自ら崖下へと飛び降りて逃げ去った!

 静寂が戻った。

「すまん、仙果を奪われたようだ」
「いいわ、1個や2個くらい。地上に降りたって、そう悪いことにはならないでしょう」
「どうしてわかる?」
「まあせいぜい、化けて人間を食べるくらい。……それよりも柊子。ハハさま、西王母からの言づてがあります。大事なことです」
「何?」
「もうすぐ何かが来ます」
「何か? どこに?」
「何か良くないものが。それはとても大きなもの。おそらく天から降るでしょう」
「それはまた雲をつかむような話だ」
「だから西王母様はあなたの修行を許したのです」
「私に関係があるのか?」

 碧霞元君は、神託を伝える巫女のように、おごそかに言った。

「“それ”をあなたが打ち落としなさい」

 しばらく、沈黙の時間が流れた。各務柊子が口を開いた。

「私が?」
「そう」
「どうやって」
「ショーリューケンで」
「ショーリューケン!?」


     ☆


 各務柊子が崑崙山を旅立つ、少し前のことである。

 そこは、鍾乳洞であった。
 天井からは鍾乳石が垂れ下がり、地面からは石筍が生える。
 鍾乳石がもしも割れ落ちてくれば、大怪我をするだろう。もしもここで蹴つまづけば、石筍に串刺しになるだろう。
 まるで、巨大な怪物の口蓋を進むかのようであった。

 悪魔の剣士レライエは、水っぽい石の地面を、鬼火ひとつだけを連れて、歩き進んでいた。
 ひきしまった細い身体に、黒い革鎧がぴったりと貼りついている。手には大鎌を持って杖代わりにしている。

 立ち止まった。

「そこにいるのか、ティアマトよ」

 レライエの声は、洞穴に深く陰陰とこだました。

 遠くから、返答。

「眠いわ、出てお行き、新しき者よ」

「貴公から見れば新しくない者などあるまい」

 レライエは再び歩いて、鬼火の光を奥に進めた。
 光の先に、蛇の尾の先が見えた。
 さらに進んだ。
 蛇の尾は、やがて大木の幹のように太くなっていった。それはひどく長くて、やがてとぐろを巻きだしていた。
 そのとくろの中央に、長い黒髪を身体に巻き付けた以外は完全に裸の、若い女がいたのだ。蛇の尾は、その女のものだった。

「新しく、騒がしき者よ、……私は眠いのよ」
 蛇の神ティアマトは、けだるそうに自分の尻尾にしなだれかかっていた。

「アシュタルテーに用がある」とレライエが言った。
「アシュタルテーは私よりも眠いのよ」とティアマトが答えた。
「私は奴に対して貸しがある。私とアシュタルテーは、共にソロモンの壺に入った仲だ」
 ティアマトはしばし沈黙して、
「……いいけど。あなたに起こせるならね」

 ずるりと重たい尾をひきずって、ティアマトは鍾乳洞の奥へ向かった。レライエは後をついて行った。

 1時間ばかり、奥へ奥へと、2人の人物が――というより、2柱の魔神が、無言で鍾乳洞を進み続けた。

 ついに鍾乳洞は終わりにつきあたった。
 そこにあったものは――

 巨大な繭だった。

 純白で、きめ細かく、その大きさはレライエが抱えて運べるようなものではなかった。うずくまった人体が、ちょうどゆったり入れるような大きさだった。
 その繭に、十字架に似たものが刺さっていた。
 いや、それは十字架ではなかった。それは、ひどく大きな、まっすぐな剣だった。
 そしてそれは、繭に刺さっていたのではなかった。繭の糸が剣にからみついて、表面をすっかり白くなるまで覆っていた。剣は刺さっていたのではなく、繭の中から生えだしていたのだった。

 レライエは進み出て、繭に触れ、顔を近づけて中にいるものを確かめようとした。
 鬼火をかざすと、うっすらと中身が透けて見えた。繭の中にいるものは、目を閉じて、まるで死んだような顔の女魔神アシュタルテーであった。

「アシュタルテーは眠りについたのよ。どうしたって起きないわ」
 とティアマトが言った。

「私が用があるのはアシュタルテーに貸与した地獄の剣モーンブレイドだ。私はあれを取り返したい。ここに生えているのはモーンブレイドだな?」
「モーンブレイドだったもの。今はもう、モーンブレイドじゃない」
「どういうことだ? 説明せよ」
「説明? だるいわ。眠い」
「説明してから眠るがいい。さもないと、ここで騒音を出し続けてやる」
「アシュタルテーはモーンブレイドを噛み砕いて、その中にいたものと融合しようとしたの」
 ティアマトがあくびをしながら言った。
「何と?」
「モーンブレイドの“中にいたもの”は、この次元界では依代がなければ存在できないの。“中にいたもの”は、剣を身体とすることで、はじめて存在することができた。でも剣は折れちゃった。“中にいたもの”はもう剣を依代にできないね。だからアシュタルテーの身体を奪いたがってる。肉体の支配権をめぐってアシュタルテーと“モーンブレイドの中にいたもの”が戦ってる。たぶん決着がつくまで、アシュタルテーは目覚めない」

 それだけ言うと、「喋りすぎて疲れた」と言って、ティアマトはその場にとぐろを巻いた。居眠りの体勢だ。だるそうに目をつぶっている。

「私のモーンブレイドは壊れたのか」
「刀身が半分しかない」だるそうに目をつぶったまま応答した。
「では剣があればいいのか。完全な剣があれば、モーンブレイドの魂はそこに乗り移り、モーンブレイドは復活するのではないのか」
「魂というのは正確じゃないけど」とティアマトは言った。「そう」
「この鎌ではだめか? 地獄の火で鍛えたものだが」
「やってみれば」

 レライエは大鎌をモーンブレイドの残骸に思い切りたたきつけた。しかし激しい衝撃に自分の手が震えただけだった。大鎌は刃こぼれをおこし、モーンブレイドと繭には何の変化もなかった。

「ただの剣じゃ駄目なんじゃない」と寝息まじりにティアマトが言った。「中身にふさわしい魔剣じゃなきゃ」

「心当たりがある」
 とレライエは言った。
「私はモーンブレイドを取り戻したい。モーンブレイドの新たな肉体にふさわしい剣を用意しよう」


  レライエ

レライエ

 悪魔の剣士。かつてソロモン王に仕えた72柱の魔神のひとつ。
 序列14位。大侯爵。
 彼女の武器で傷つけられたものは重い病気にかかるといわれる。

 地獄の剣モーンブレイドの現在の正式所有者だが、魔神アシュタルテーに勝手に持ち出され、遺失したかたちになっていた。魔剣コレクターとしても有名で、愛用の鎌も逸品のひとつ。

 呪文書レメゲトンに記されたさまざまな制約に縛られており、現状では本来の力を発揮できていない。