アクエリアンエイジ フラグメンツ〜調和の杯〜

断片3「蛇神降臨」

「ああ、それにしても残念だ。アレクサンドラの人造神、ひと目でいいから見てみたかったな。どんな存在が生まれただろう、人格は存在したのかな。返す返すも失敗が残念だ、まったく」
「大師さま、それが成功していたら、あなた様はこの世界にいらっしゃることができませんので、ごらんになれません」

 真っ暗な場所。どこかの部屋なのか、異次元のはざまなのか。
 それすらもはっきりしない場所に、金色の灯りがひとつだけ浮かんでいる。
 その灯りにてらされて、〈大師〉ことサン・ジェルマン少年伯爵の幼い顔と、その従者スイレン・オクリーヴの顔が、亡霊のように浮かんでいる。

「……ああ、そうか。いかんな、平行世界を飛び回っているせいで、因果関係の認識がゴッチャになってしまっているようだ。バベル計画が失敗しないと、君に多重能力は目覚めないのだから、私を呼び出すこともできないのだったね」
「新たな多重能力者の目覚めがあります」
「ほう、どうして知ったの?」
「霊たちが耳打ちしてくれました。ごらんになりますか?」

 サン・ジェルマンは含み笑いをした。

「もちろんだよ。ぜひ見たいものだね」


     ☆


 厳島美晴はビクッとした。

「またガタガタ鳴ってる……」

 広島県。宮島。
 水上建築。
 日本でも有数の規模をもつ神の社に、厳島美晴はいた。

 彼女がいるのは、祓殿である。
 壁はなく、吹きさらしてある。床と天井は黒光りしており、重々しく、厳粛。朱塗りの柱が立ち並び、遠近法的な情景をつくっている。
 外には海が広がっている。有名な、海上大鳥居が正面に見える。

 美晴がなぜ「ビクッとした」のかといえば、祓殿の中央に鎮座した漆塗りの箱が、急にびんぼうゆすりを起こしたからである。

 文箱をひとまわり大きくしたようなサイズで、しめ縄がかけられ、御幣で封印されている。箱の周囲にも、四方を囲うようにしめ縄が張ってある。
 天下に並ぶもののない封印の天才、厳島美晴の結界だ。

 もとはといえば、
「怨霊がとりついているので、お祓いをしてほしい」
 ということで、諏訪の社に持ちこまれたものだ。ところが、怨念が強すぎて、諏訪里奈子の手には負えなかった。

 そこで、調巫女・伊雑あざかに託されることになった。この手の仕事に、伊雑あざかは定評がある。
 ところが、伊雑あざかにも祓えなかったのだ。

「あんなもの、爆破するとよろしいのですわ」

 美晴は彼女と電話で話したが、ずいぶん不機嫌で、扇をぶんぶん振り回していた(扇を振り回していたというのは美晴の想像である)。
 たぶん、噛まれたかなにかしたのだろう。
 お祓いが成功したら重要文化財に指定される予定なので、爆破するわけにはいかない。

 そこで、美晴のもとに回されてくることになったのだ。それ自体がすでにただごとではない。
 それだけでは済まなかった。
 美晴はさっそく、祭儀を催して、件の品物を鎮めようとしてみた。
 ところが……美晴にも祓えなかったのだ。
 しかたなく、悪さをしないよう結界で閉じこめているのだが……。

「こら、おとなしくしなさい」

 箱が飛び上がろうとした。
 四方にめぐらせたしめ縄が高周波じみた音を発して、それを押さえつける。
 天下無双の厳島結界に封じられた「何か」が、自由になろうとして暴れているのだ。

 美晴付きの小間使いをしているメガネをかけた巫女がおそるおそるやって来た。

「あの、美晴さま、お客様がおいでになりました」
「こちらに直接お通しして」
「あの、それ……動いてます……よね?」
「うらら、あまり近づくと噛みつくそうよ」

 メガネ巫女はパタパタ足音をさせて去っていく。

 しばらくして、日の当たる回廊を優雅にわたってきた人影が、祓殿の前で立ち止まり、
「ごめんくださいまし」
 良い声でそう言った「客人」は、男物の和装をした、黒髪の美しい女性だった。

「ご足労でした、塩津清良どの」
 美晴は男装の美女を招き入れながら言った。
「なんの。ほかならぬ厳島美晴さまのお呼びとあらば」
「これなんです」

 美晴は四方囲いのしめ縄を外して結界の中に入った。
 とたん、黒塗りの箱が板の床を滑って逃げ出そうとする。
「おっといけない」
 美晴は素早く動いて右足で箱を踏んづけた。人目の少ない場所での厳島美晴のお行儀の悪さには定評がある。
 よいしょ、としゃがみこんで、人差し指一本で上から押さえつけると、箱はガタガタと身震いしながらも、それ以上の抵抗はできないようだ。
「見ていただけますか?」
「拝見いたします」

 塩津清良がそっと箱に触れると、暴れようとしていた箱は急におとなしくなった。

 箱をからげていたしめ縄をほどき、蓋を開けた。

 そこに納められていたのは、
 角の生えた、鬼の能面であった。

「だから貴女をお呼びした次第です。能楽師・塩津清良どの」

 厳島美晴はそう言った。

 美晴は、あまりこの面を見たくなかった。

 形相。

 何度も見ているが、正視するたびに、息が止まる。
 うなじが逆立つ。
 生々しい憎悪が伝わってきて、心を後ずさりさせる。
「なるほど……」
 能楽師・塩津清良はうなずいた。

「私はよく知らないのですが、これはいわゆる般若というものですか?」
「いえ……これは真蛇ですね。真の蛇と書きます」
「蛇?」
「女の中にひそむ蛇の本性が、人間性を完全に駆逐した状態を形にしたものです」
「え、これ女性なのですか?」
「女です。男面にこれほど異形なものはありません」
「……なんだか、釈然としないものがあります」
「私もです。同感です」

「で、どうしたらよろしい? 塩津どの」
 美晴は顎に手を当てて首をかしげた。
「放っておけば夜中に出歩いたり、柱をかじったり、人の精気を吸ったり、野生動物を食い殺したり。といって私が四六時中見張っているわけにもいかないの。あなたなら妙案が浮かぶと思った次第なのですけれど」

「そうですね……」
 塩津清良は鬼面の頬を、指先でそっと撫でた。彼女が触れているかぎり、面はただの面であるようだ。
「これを着けて、一曲、舞いましょう」



「道成寺がよろしいでしょう」

 厳島神社の境内には能舞台がある。400年前の建築。これ自体が重文指定である。
 その楽屋で水干姿に着替えながら、塩津清良は厳島美晴に語りかける。

「美晴さまは安珍・清姫の説話はご存じですか?」
「知りません。説話ということは仏教ですね?」
「はい。安珍なる美僧と清姫なる少女が、将来の約束をするのですが、安珍は約束を反故にして逃げてしまうのです。裏切られたことを知った清姫は怒りのあまり蛇身となって安珍を追います。安珍は道成寺の梵鐘を下ろしてもらい、その中に隠れますが、清姫は梵鐘に巻き付き、情念は炎となって、安珍を焼き殺すのです。美晴さまはこの話をどう思われますか?」

 厳島美晴はずいぶん大人になった。姉のあとを継ぐと決心したとき、自分は強くなるのだ、もっと大人になるのだと心に誓ったのだ。
 が、ときおり、やんちゃな少女だったころの地がぽろりと出る。美晴はこたえた。

「……安珍ざまーみろ」

「ええ、安珍はむくいを受けます。現代に至るまで、この物語が語られるたびに、幾度となく安珍は死ぬのです」
「その演目に、真蛇の面が使われるのですね?」
「さようです。清姫の物語を借りて、蛇面に宿った憤怒の情念をゆり動かし、怒りを発散させ、謡いの力で昇華させれば、面はおとなしくなるでしょう」

 それからふと、塩津清良はほほえんだ。

「美晴さまも心に蛇をお持ちですね」



 能舞台の左手。鏡の間と舞台をつなぐ橋掛かりを、水干に烏帽子をつけた白拍子姿の塩津清良がゆっくりと踏んでいく。
 能楽の主人公をつとめる役者を「シテ方」という。
 鬼神、亡霊などが主役となる能の演目を「夢幻能」という。
 シテ方、塩津清良の夢幻能は、文字通り観客に夢幻を見せる。
 異界をかいま見せる。
 虜になる者もいる。
 怖ろしさのあまり、二度と見ないと誓う者もいる。
 後座にはすでに、塩津が連れてきた、笛、小鼓、地謡の囃子方3名が、人形のように控えている。
 今は夕刻。
 かがり火が焚かれ、舞台はオレンジ色にゆらめいている。

 塩津清良が舞台の板を踏んだ。

 彼女が演じる蛇心の白拍子は、まだ人の姿だ。

 厳島美晴は、能舞台の正面に床机を置かせて、炎に照らされた白拍子を見上げている。
 なにがしか、心がざわめく。
 何だろう……。

 道成寺は長い演目だ。塩津清良は物語のハイライトを選んで、舞う。

   花の外には松ばかり
   花の外には松ばかり
   暮れ初めて鐘や響くらん

 塩津清良が足拍子を踏む。
 舞台の板を、勢いよく踏み鳴らす。

 何かが異界から、ここに向かって近づいてくる、足音のように聞こえる。

   道成の卿 承り
   初めて伽藍 橘の
   道成興行の 寺なればとて
   道成 寺とは 名付けたりや

 塩津清良が足拍子を踏む。
 踏む。

 踏む。

 長い沈黙。

 そして、
 踏む。

 沈黙が足踏みに破られるたびに、世界が薄く塗り変わるのを、厳島美晴は感じる。

 世界にヒビが入っていく。
 ヒビから何かがしみ出してくる。

 何か得体の知れないものが。

 これは。
 これはよくない。

 間違っていた。
 今すぐ止めなければ。

 でも、動けない。
 止められない。
 見入ってしまう。
 魅入られている。

   思へばこの鐘 恨めしやとて
   龍頭に手をかけ 飛ぶとぞ見えし
   引き被きてぞ
   失せにける――

 舞台の天井に吊り上げられていた梵鐘が。
 落ちる。

 怨念をはらんだ女の踊り手に覆い被さる。

 かがり火がはぜた。

 ――いけない。

 厳島美鈴が立ち上がる。
 能舞台に駆け寄ろうとして、

 つくりものの梵鐘が、
 爆発した。

 まるで紙でも焼くように、
 燃えあがる。

 炎熱にあぶられて、美晴は思わず袖で顔を覆ってしまう。

 演出などではない。
 その証拠に、
 幾筋もの炎が、蛇のかたちにのたくっている。
 舞台の柱を、屋根を、這い回って燃やしている。

 囃子方たちを焼き殺している。

 炎上する能舞台。
 その中央に、人が立っている。

 いや、人なのか。

 それは炎の蛇たちのあるじ。

 水干の衣装が焼けて、
 半裸の肌をさらしている。
 炎にあぶられても火傷ひとつせず、
 しみひとつない真っ白な素肌。

 その顔には真蛇の面がはりついている。
 燃え上がる熱気に髪をたなびかせて、蛇の形相が、炎に赤々と。

 だん。

 だん。

 怒りを世界中に伝えたい、とでもいうように。
 地団駄のような足踏み。

 足踏みのたびに、にごった瘴気が、音波とともに放射状にひろがる。

 この瘴気は――
「ダークロア……」
 現代に生き残る神鬼たちの軍団。塩津清良は、人間ではないものの力に目覚めてしまったというのか。

 蛇面が塩津清良を乗っ取ったのか。
 塩津清良の蛇心が蛇面によって目覚めたのか。

 わからない。

 真蛇が絶叫をあげた。
 それは歓喜の叫びだった。

 その瞬間、能舞台の屋根が炎に包まれたまま崩落した。

 厳島美晴はなすすべもなく立ちすくんでいた。



 発見された焼死体は、いずれも男性……囃子方の3名だけだった。
 塩津清良のゆくえは、誰も知らない。


  塩津清良

夢幻能シテ方


真蛇

 能楽塩津流の宗家代行。若き天才能楽師。
 塩津流は地方土着能のひとつで、能が女人禁制だったころから密かに女性能楽を伝えてきた流派。
 演目が一般公開されることは原則的になく、ほとんどが神社での奉納上演。

 数少ない観劇者たちは、口を揃えて「取り憑かれたような舞」だと評する。また、彼女が舞うと、異変や天変地異が多発することでも有名。

 阿羅耶識に所属し、怨霊、死霊の類を「霊鎮め」する役目を持っていたが、異界に同調する力があまりにも強すぎることを各方面から危惧されていた。
 バベル崩壊の余波によってダークロアの能力に覚醒するが、これは彼女が望んだことではなかった。「真蛇の面」の事件では、彼女は面に宿った怨霊をあくまでも鎮めようとしていたのであって、意図的にこれを奪ったのではない。

 彼女は悲しい恋をいくつも経験している。

 

※謡曲の詞は「日本古典文学全集34 謡曲集 二」(小学館)によりました。


フラグメンツ トップへ戻る

back
AquarianAge Official Home Page © BROCCOLI