アクエリアンエイジ フラグメンツ〜冥約の少女〜

断片5「悪魔殺しの代償」


 アムステルダム発、ヴェローナ国際空港着の直通便。
 ゲートを通って、イタリアに足を踏み入れたイエローブロンドの少年は、立ち止まるなり、

「匂うな……」

 そう言って眼鏡のブリッジを指で押さえた。常人に判別できる匂いのことではない。

 空港の荷物受け取り場で、スーツケースを受け取った。
 そして、秘密の窓口で、飛行機では運べないはずのものをいくつも受け取った。

 ホテルに向かって、歩き出した。
 ヴェローナは大ローマ帝国時代からの古都だ。
 赤屋根で統一された石造りの街並み。その切れ間にちらりと姿を見せるコロッセオ――円形闘技場。
 しかし。
 そういったものには彼は一瞥もくれない。

 正方形の石タイル敷きの道を踏んで、少年は歩いていく。

 その少女とすれ違ったことに、彼は気づかなかった。そんな些細なことに意味があろうとは、彼は夢にも思わない。
 リンナ・アルストロメリア。死を振りまく少女が、歩いてくる。
 前から歩いてきて、彼とすれ違った。
 そんなことがあったとは、彼はまったく、知らない。

 だから少年は、そのとき芽生えた強い感情を、これからなしとげようとすることへの武者震いだと思ったのだ。
 僕はあの力のない父とは違う。
 祖父と、曾祖父と……初代の技を、最も忠実に現代に引き継いだのだ。
 やってやる。
 殺してやる。
 ケースに入れて標本にしてやろう。友人たちに自慢ができそうだ。でもめんどくさいからすりつぶすだけでもいいかな。
 楽しみだな。ああ、楽しみだなあ。くくく、はははは。


     ☆


 ヴェローナの都市部をはるかに離れた農業地帯。

 荒野のはざまに、ところどころ豊かな田園が広がる、そんな光景。
 少年は、午後3時にそこにたどり着いた。夕暮れまでまだ充分に時間がある。

 遠くに城館が見えてきた。起伏のある地形の、高い場所。
 麦畑を丘から見下ろすような館だ。
 どれだけガラスが使われているのか見当もつかない。もとは貴族の別宅だったらしいと聞く。今は地方の大地主が買い取って住まいにしているはずだ。建前上は。

 形ばかりの小さな柵を乗り越えて、その城館の敷地内に彼は侵入した。
 人工的に植えられた林を抜けると、緑の丘が広がる。
 その丘のずっと向こうに、とても小さく館が見える。
 おそろしく遠い。
 曲がりくねった小道が、ときおり小さな起伏に阻まれて見えなくなりながら、緑の野原を通っている。遠い館の窓が、光を反射して、きらきらと輝いている。

 小道を避けて、草を踏んで歩いた。

 緑の丘に野の花が咲いている。

 その花を摘んでは、空に向かって放り投げている小さな女の子がいた。草の上にぺたりと座り込んでいる。フリルのついた、白と黒の簡易なワンピースドレスを着ている。髪はやたら長くて、立てばかかとくらいまで届きそうだ。

「クレメンティーナ・キュリヴナ嬢はご在宅?」
 と少年は訊いた。

 女の子が顔を上げて、大きく目を見開いた。
「クレメンティーナは外国にお出かけしてるのよ。私を連れてってくれなかったわ!」

「留守……」少年は意外そうにつぶやく。「本当に?」
「本当よ。疑うなんて、良くないことだわ。あなた、クレメンティーナのお友達なの?」
「友達ではないよ」
「これから友達になるの?」
「ならないね」
「じゃあ、どうしてクレメンティーナに会いに来たの?」
「用事があるんだ」
「あなた、村の木こりなの?」
「どうして?」
「腰にいっぱい、大きな鉈をぶらさげているから」
「木こりではないよ」
「じゃあ、狩人なの?」
「そう、狩人だよ。本当にクレメンティーナはいないのか? 彼女は外出なんてしないはずだ」
「たまにはするのよ。私もびっくりしたわ。撃ったキジを売りに来たの?」
「キジはこれから撃つんだよ」
「ここにはキジなんていないわ。あなたお名前は?」
「ヴァン・ヘルシング5世」

 そう名乗った少年は、バッグから鋼鉄のグローブを取り出してはめた。
 凶悪な笑顔。

「吸血鬼クレメンティーナが本当にいないのならば仕方ない。君の首で我慢することにしよう、悪魔アシュタルテー」

 少女はゆっくりと立ち上がる。いつのまにか、頭の側面からグレーの二本ツノが生えている。瞳が金色に輝きだしている。背も伸び始め、ハイティーンくらいの容姿に変貌した。

「何で知ってるのよう、あたしのことー」
 悪魔少女――アシュタルテーは口をいっぱいに横に広げて笑った。

「小物の吸血鬼を2、3匹えぐって拷問したら、いろいろ教えてくれたさ。霧の吸血鬼とフェニキアの悪魔が、どういうわけかイタリアで最近つるんでいるってね」
「お株を奪うわね。どっちが悪魔だかわかりゃしないわ」
「きたない虫を靴で踏むことのどこが悪魔?」

 ヘルシング少年はあざ笑った。

 アシュタルテーの足元がざわざわとざわめいた。いつのまにか、細くて異様に長い蛇が地面にのたくっていた。蛇はするするとアシュタルテーの身体を登り、
 彼女の手の中で1本の鞭に変わった。

 悪魔は、長い長い鞭を華麗にバックキャストして、
「爆ぜなさい」
 一気に振りつけた!

 悪魔の鞭をくれられて、まっぷたつに引き裂かれない人間などいない。
 肉が断たれるずるりとした手応え。アシュタルテーは、それが伝わってくるのを期待した。
 しかし彼女の腕は空転する。

 ヘルシングがグローブの手で投げたもの。
 それは小さな刃のブーメランだ。
 2本のブーメランがひと投げで飛んで、長い鞭を、根元と中央でぶっつりと3つに切断していた。鞭の断片がぼとぼとと草むらに落ちて蛇の姿に戻る。

 ヘルシングは腰のポーチから、新たなブーメランを2本取り出す。もう片方の手でマチェットを引き抜いている。大鉈はクィンシー・モリス以来の悪魔殺しの武器だ。

「これは面倒ね」
 アシュタルテーはつぶやき、
「ばいばい」

 アシュタルテーはムラっ気のある悪魔だ。「ウザい」と思ったら、すぐ姿を消してしまう。
 彼女は自分の足元に真っ黒な穴を生み出した。そこに飛び込む。中は魔界だ。

 しかし。
 飛び込もうとしたアシュタルテーは電気ショックのようなものを食らって跳ね飛ばされた。
 野原に倒れたアシュタルテーに、刃のブーメランが襲いかかる。ブーメランは彼女の左腕と右肩に一本ずつ刺さる。

「逃がさない。おまえがそうやって逃げることはわかっていた。この場所は聖なる糸巻きで囲ってある」

「ああそう」
 地面に倒れていたアシュタルテーは、全身の関節をまったく曲げずに、棒が立つようにふわりと立ち上がった。
 2本のブーメランを無造作に身体から引き抜く。傷口からタールのような液体が流れ出す。

「命を取らないであげたつもりなのに、好意を無にされて残念よ」
「もうすぐおまえは、僕に命乞いをすることになる」

 聞いたアシュタルテーはゾッとするような笑みを浮かべた。ふいに叫んだ。

「モーンブレイド! モーンブレイド! ここにおいで! 地獄の剣! うなりをあげる刃よ! ここにおいで!」

 アシュタルテーの足元。地面から、何かが突き上がってきた。
 十字型をした棒状のもの。
 それは世にも禍々しい形状をした、真っ黒な剣。

“うなりをあげる刃”モーンブレイドと呼ばれたそれが、アシュタルテーの小さな手によって、地面から引き抜かれた。すると、

 うぅぅうぅぅぅんん……うぅぶぅうううぅぅん……
 うううぅぅうぅうぅううぅうんんん……。

 刀身がうす赤くきらめきだし、聞いているだけで不安になるような、不吉な共振音を鳴らし始めた。

 アシュタルテーはたわむれに地面を斬りつけた。
 とたんに周囲の緑色の草がみるみる枯れた。土がむきだしになり、その土も白くからからに乾き、ぼろぼろした砂礫に変わった。そして土の中にいた小さな虫や土ネズミが浮き上がってきてミイラのようにひからびた死骸をさらした。
 そして、

「お死に」

 アシュタルテーは魔剣モーンブレイドを頭上高く掲げ、
 ヘルシングの脳天に振り下ろした!

 ヘルシングはマチェットで受け止めようとするが、刃は地獄の剣に当たるや、ガラスのように砕け散る。

 モーンブレイドの刃は必殺の勢いでヘルシングの頭に激突した!

 ヘルシングがにやりと笑う。
 アシュタルテーが驚愕している。

 ヘルシング少年は平然としている。刃は彼の頭に1ミリたりとも食い込んでいなかった。皮膚一枚すら傷ついていない。彼は大剣に斬りつけられたのに、のけぞりもしていない。

「どうして……」
「僕の身体は5世代に渡って練り上げた、これ自体が悪魔払いの結界。地獄の剣とは笑わせる。悪魔の武器だからこそ、僕には傷ひとつつけられない」

 ヘルシングは予備のマチェットを引き抜き、アシュタルテーの小さな肩に振り下ろした!
 薪を割るような乾いた音がして、刃が悪魔の少女に食い込む。
 アシュタルテーは今度は痛みに絶叫した。
 悪魔にだけ効く毒がたっぷりと塗られていた。
 ヘルシングは腰から、細い鋭い突き短剣を逆手に引き抜き、少女の薄い胸に突き込んだ!
 アシュタルテーは灼けるような痛みに絶叫した。
 もう1本、突き短剣を引き抜いた。頭上に振りかぶって、鎖骨の隙間めがけて突き降ろした!
 アシュタルテーは絶叫した。

 ヘルシングが、笑った。

 アシュタルテーは痛みに泣き叫びながら、砂礫と化した地面に仰向けにぶっ倒れた。どす黒い液体を身体中からまきちらしながらのたうちまわっていた。
 痛い、痛い、痛い……。
 悪魔が口から目から液体を流して叫んでいる。

 悪魔は最初は遊びのつもりだった。とんでもなかった。この人間は最初から言っていた。狩るのは人間で、狩られるのは悪魔だと。おまえは狩人に狙われたキジなのだと。

「おまえは死ぬ」
 と人間が言った。

「胸部を切開し、心臓を取り出す。首を切断する。口の中に心臓を詰め込む。身体は焼却する。首は灰と一緒に瓶詰めだ。聖なるかな。滅びよ悪魔」

「殺してやるッ!」
 アシュタルテーは顔をぐしゃぐしゃにしてのたうちながら絶叫した。
「殺してやる! 殺してやる! ああ、痛い、痛い! 殺してやる! モーンブレイド、どこ? 力を貸して、私のモーンブレイド……」

「地獄の剣なんか無駄だ」と人間が言った。

 アシュタルテーは手探りでモーンブレイドをさぐりあてた。
「モーンブレイド、あんたに私をあげる。あんたは悪魔より邪悪な剣。悪魔より邪悪な人間を殺してちょうだい。モーンブレイド、あんたに私をあげるわ。だからあんたを私にちょうだい!」

 アシュタルテーは天に顔を向けて、裂けた口をさらに大きく開け、
 モーンブレイドを、いとおしそうに高く掲げると、
 まるで奇術師がよくやるように、その地獄の剣を、剣先からずるりと飲み込んだ!

 そのとたん、アシュタルテーの全身から、あの不吉なうなりが上がる。
 彼女の全身が、ふるえた。

 太陽に雲がかかって、あたりが翳った。

 ふるえていた彼女の身体が、急にぶくりとふくらんだ。
 ぶくり。ぶくり。
 際限なく内側から。

 アシュタルテーの「体積」がどんどん増殖していく。
 ときどき、ある部分がぶっつりと2つに分裂したりする。
 全体が泡立ちながら、際限なく変形していく。

 その頂上に、
 明らかに正気をなくしたような、
 悪魔少女の、
 貼りつけたような、笑顔。


 ヴァン・ヘルシング少年の目が驚愕に見開かれ――
 その表情がやがて、恐怖にゆがんだ。


  ヘカトンケイル・ユニット

死神少女“谺”

 オランダ在住。17歳。飛び級によりアムステルダム大学に在籍。
 伝説のヴァンパイアハンター、ヘルシング教授から数えて5代目にあたる直系の子孫。

 5世代にわたって磨き上げられた吸血鬼狩りの技を備え、さらに生まれつき妖力への強い抵抗力を持っている。戦闘力は、歴代ヘルシング中最強だと言われている。

 父にあたるヘルシングIVが、どちらかというと学者肌だったのに対し、彼は完全に武闘派路線を歩んでいる。父親との間には考え方の違いからくる確執があるようだ。

 エクソシストとしても一流。


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