アクエリアンエイジ フラグメンツ〜冥約の少女〜

断片6「泰山府君」

 陰陽師、土御門紗綾は、ガラス障子の古い洋間で、お茶を飲みながら書き物をしていた。

 七分丈のジーンズに、素肌の上から直接着た柄シャツという、くつろいだいでたちである。公式の場ではいつも、男物の狩衣を着て背筋を伸ばしているから、あまり人に見せたことのない姿だ。

 さる出版社から、占事略决の注釈書の執筆を依頼された。
 ところがこれが、なかなか難しい。
 自分は感覚的に理解できるのだが、人に言葉で説明できない。ああでもないこうでもないと頭でひねりながら、参考のために別の書物を取り出してくる。するとそっちが面白くなって、いつのまにか別のことを考え出している始末である。

 京都府堀川一条。古民家。気付けば彼女の洋間は、和綴じの本が山のように積み上げられているありさまであった。
 式神参式が、言いつけられた通りの書物を蔵から取り出してきて紗綾のそばに置き、お茶を淹れなおして、邪魔しないようにそばに控える。

 しばらく、そうした静かな時間が流れた。

「んん?」

 紗綾は本を伏せて、顔を上げた。何だか匂う。昼間に式神死式が煮物を焦がした名残ではない。
「騰蛇、ここにありなさい」
 紗綾が命じると、目の前に赤い光の粒が現われる。
「破敵(攻撃せよ)。急急如律令(すみやかにプログラムを実行せよ)」

 赤い光が外に向かって飛んでいく。

 耳を澄ますように、紗綾はじっと待った。

 しばらく沈黙。

 突然、音を立ててガラス障子が割れた。
「はね返された!?」
 立ち上がる。
 靴を履いて急いで外に出る。そして……。

「何、これ……」

 霧だ。

 家を出ると、外はミルク色の濃密な霧に包まれていた。
 片車線だけの狭い道。なのに向かいの家が見えない。

“麗しの霧に雑音を入れるのはだれ? だれ?”

 霧の中から声がした。潤いのある、大人の女の声だ。

「迷惑です」紗綾は言った。
“キョートの町には霧が似合うわ。そうではなくて?”
「このままおとなしく帰るというなら、私も引き揚げる」
“お下がり、お下がり。優雅をけがす雑音に耐えられないわ”
「あなたが京には場違いです」
“ああ、どうしてうるさいの? とってもお掃除がしたいわ”
「去りなさい」
「私はクレメンティーナ」

 最後にはっきりした声が聞こえてきた。霧がいっとき、途切れた。
 ねっとりとした霧の中から、黒衣の女。

 鴉の羽根のような光沢のある、腰ベルト付きの真っ黒なコートドレス。真っ黒な編み上げブーツ。
 ほとんど銀に近い長い金髪に、黒いリボン。
 すべての装いが、細身の身体に、ぴったりと貼りついている。

「吸血鬼……」
 紗綾がつぶやく。
「霧の一族というのよ」クレメンティーナは優雅に訂正した。
 それから、お茶にしましょう、とでもいうような何気ない口調で、言った。

「耳障りだから殺すわ」

 紗綾は無言。

“ねえ、死ぬときに叫んでは駄目よ。うるさいから……”

 黒衣の美女の姿が、霧に溶けていく。


 何も見えない……


 そして、
 霧が猛烈な殺意を放ってきた!

「四神に帰命す、四方に相応せよ! 勾陣我にあれ!」

 術式の完成とほぼ同時に霧のかたまりが殺到してきた! それは虎くらい巨大な、霧でできた2匹の狼だった。獣の形をした2つの砲弾が紗綾のその場しのぎの結界に激突する! その2発で四方に配置した青竜朱雀白虎玄武がまとめて吹っ飛ぶ。

「呪ひて禁ず、クレメンティーナ、動くことを禁ず!」

 2本の指で霧の中を指さし、紗綾は金縛りを放つ。
 手応えがない。術式を変えて再度試みる。
「不動尊に帰命す、縛せ!」
 手応えがない。

 優雅な笑い声が聞こえる。

“霧を縄で縛れると思って?”

 ミルク色だった霧が不自然に濁りだしている。
 真っ白な視界の向こうで、新たな「霧の魔物」が生まれているのがわかった。

 来る。

「六合! 斬截、急急如!」

 式神が生まれて霧の中へ飛んだ。霧の獣とぶつかりあって消滅するのを感じた。
 霧から獣のうなり声が聞こえる。

「天后! 斬截、急急如! 大陰! 斬截急急如!」

 新たに2つの式神を喚んで飛ばす。式神が霧の中へ飛び込んでゆく。そしてどこかで爆ぜて消えたのを感じる。

 眼前の白いスクリーンから3匹の猛獣が飛び出してきた!

「斬截! 大裳、天空、貴人!」

 3つの式神が猛獣を迎撃する! 3つの霧の魔物と3つの式神が互いを引き裂きあって消滅する。

 紗綾は呼吸を整える。
 弾切れだ……。
 さっきから呼んでいるのに、式神参式と式神死式に声が届かない。あとの手持ちは時間のかかる術ばかり。時間稼ぎをしなければ……。

 紗綾は霧の向こうをにらむ。

 と、

「どこを見ているの?」

 耳元で声。首筋にかかる息。
 振り返るひまもない。首のうしろにちくりと痛み。

「あ……」

 全身にどろりと闇がまわるのを感じた。
 背後に。
 吸血鬼が立つ気配を感じながら、その場にくずおれた。
 意識が霧に包まれていく……。指先から自分が死んでいくのがわかる……。

「毒はもっとも優雅な死。酔いなさい、霧の一族の美酒に」

 意識がうすれ、もうほとんど聞こえない……。

“血なんか吸ってあげないわ。だって私、小食なんですもの。少しは楽しかったわ、ごきげんよう”

 霧に溶けていったのが、
 黒衣の女なのか、
 自分自身だったのか、

 もうわからない……。




 ミルク色の不吉な霧が、しりぞいていったあと。
 別の霧が音もなくやって来た。
 霧の中心に、2つの鬼火を従えた、水干、烏帽子姿の美青年がひとり。

「遅かったか……」

 青年は紗綾の身体を抱き起こす。
 頬に触れ、その死に顔を確かめようとして……彼はふと気づく。

「まだ魂は完全に身体を去ってはいない。何とかなるかもしれぬ」

 青年は紗綾の身体を抱き上げた。

「何世代ぶりだろう、土御門晴明が、本物の泰山府君祭を行なうのは」


     ☆


 進んでゆく。
 進んでゆく。
 霧の中を進んでゆく。

 いや、霧ではないのかもしれぬ。
 あるいはこれが無というものかもしれぬ。
 白い場所をただ、ひとつの方向へ進んでいる。

 小さな橙色の光が見えて、それが大きくなってゆく。
 そこに近づいてゆく。

 鋼色の、巨大な門が、閉じていた。

 ぽう。
 と、門の右に白い光。

 ぽう。
 と、門の左に赤い光。

 光はやがて、巫女装束の少女の姿となる。右は、黒い衣に黒い袴。左は、白い衣に赤い袴。


 よく来た 地上での生命を終えたる魂よ

 と、黒い少女が言った。

 よく来た かつて土御門紗綾と呼ばれた魂よ

 と、白い少女が言った。

 ここは 地獄門
 我らは 地獄門の巫女
 汝の 使命は 終わりました
 今 扉を 開けましょう
 汝は ひとりの人間であることを 終え
 大いなる 魂の 一部へと戻るのです

 2人の少女が、交互にそう言った。

 そして2人は、しめやかに、黒光りする巨大な扉を押し開けはじめた……。

 おや?
 と白が言った。

 どうしたことでしょう
 と黒が言った

 扉の隙間に 砂が噛んでいる
 と白。
 これでは扉が開きません なんとかこじ開けなければ怒られます
 と黒。

 2人の巫女があたふたしはじめている。
 そうして、その場に取り残された“わたし”に、

“こっちに来るんだ、静かに、気づかれないように”

 懐かしい、聞き慣れた声がささやきかけた。

“あちらの方角を見るのだ、昼間の太陽のような、真っ白な光が見えてくるはずだ。よく見ろ、おまえになら見える。そこに向けて、まっすぐに進め。音を立てずに、声を出さずに。決して振り返ってはならない”

“わたし”は、懐かしさのあまり、何の疑問も持たずに、言われたとおりにした……。


     ☆


 ブレザーを着た、長い髪の、ひどく小柄な青白い少女が、闇の中を歩いていく。

 ろうそくの灯りが、ぽつ、ぽつ、と灯って、彼女を導きだす。

 そして、闇の中に、ひときわ大きなオレンジ色の灯りがあらわれて、
「おいで、愛しい子よ」
 諸葛孔明が、優しい笑顔で、彼女を手招きした。

 リンナ・アルストロメリアは、ペンギンみたいな足取りで、ちょこちょこと近づいていく。

「楽しかったかい?」と諸葛孔明が聞いた。
「たのしかった、いっぱいしんだ」
 リンナ・アルストロメリアは表情を変えずに言った。

「そうか」
 諸葛孔明は、少女の頭を小さく撫でた。
 少女は、目を細めて、少し恥ずかしそうに撫でられている。

「疲れたろう? あっちで一緒にお菓子を食べようね」
 諸葛孔明が少女の背に手を当てて導こうとした。

 少女は、小さく一歩進み出て、孔明に抱きついた。

 諸葛孔明の身体が、ずるりと下方にずれ、どさりと音を立ててくずおれた。
 そして、動かない。
 その目がガラス玉のように見開かれている。

 諸葛孔明は、死んだ。


 リンナ・アルストロメリアは、何事も起こらなかったかのように、その場に立っている。


  クレメンティーナ・キュリヴナ

クレメンティーナ・キュリヴナ

 ロシア生まれの吸血鬼。年齢不詳。ロマノフ朝時代の貴族令嬢だという噂もあるが詳細不明。
 人間を相手に、命の取り合いをするのが好き。本人はそれを「高雅で美しいゲーム」だと考えている。そして、人間もそう思っているにちがいないと思いこんでいる。

 大金持ちで、世界各地に別宅を持っている。ロシアの居城から出ることはめったにないが、吸血貴族どうしの社交のため、まれに外出することがあり、そのついでに世界観光を楽しむことがあるようだ。
 最近ではイタリアで、ヴァチカンのエクソシストたちを「掃除」している姿が報告されている。

 レベルの高い吸血鬼は誰でも変身能力を備えているが、彼女はその中でも、「霧への変身能力」が異常に発達している。霧の姿でいることがほとんどで、人間の姿でいることのほうがむしろ少ないほど。
 そのせいもあって、存在を維持するのにほとんどエネルギーを必要としなくなっており、吸血への欲求が乏しい。


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