ゆらり。
澄み切った朝の空気に満ちた広い庭で、朱麗花はゆっくりと伸ばした両腕を回転させた。
すうぅぅぅぅ。
はあぁぁぁぁ。
赤に金糸の縫いとりで鮮やかな花が刺繍された胴着姿で、ゆっくりと呼吸し、体中に『気』を循環させていく。
早朝の講習を終え、生徒達が帰ったあと、麗花はひとり自分自身の修行として太極拳の型を次々と演じていく。
すっかり健康術というイメージが一般に染み付いて久しい太極拳だが、その本質は太極すなわち陰陽合一の気の制御にある。
麗花は、女性の身でありながら、若くしてその本来の太極拳の奥義を習得した数少ないひとりだった。
もっとも、麗花自身も、中国系寺院や道場で健康術としての太極拳を教えている。
横浜に居を構える裕福な元華僑の娘である彼女にはそういったことをしなくとも日々の糧には困らない。
しかし、太極拳の効能を広めていくこと、己の技と心を磨き上げていくことは麗花にとっては数少ない生きがいのひとつであった。
しかも、麗花の所属する阿羅耶識という勢力にとっては、人脈を拡大するきっかけともなっていた。
健康術としての太極拳を学びに来る人間の多くは老人であり、まして健康を気にしはじめたとあっては、数々の古い伝統の術を今に伝える阿羅耶識にしてみれば取り込みやすい傾向の人々であるといえた。
「おはよう……ぁふ」
その庭に、大あくびをしながらやってきたのは、スパッツにNBAのレプリカユニフォーム姿の少女である。
「しゅ……れいかさんだよね?」
目をこすりながら麗花に尋ねた。
「ええ。あなたは?」
身体の動きを止めて麗花はうなずき、逆に問い返した。
「アタシは凛。日比野凛」
少女は、手に指なしの手袋をはめながら答えた。
「もう聞いてると思うけど、しばらくアタシたちで組むことになった、っていうから。ちょっと挨拶にね。この時間が一番確実だっていうし……」
ふあぁ、と凛はまた大きく欠伸をした。
深夜のストリートファイトに興じている凛にとって、早朝という時間はもっとも眠くなる時間帯といえた。
「それはご丁寧に。でしたらお茶でも……」
どうぞ、と言いかけた麗花の胸元に、凛の手袋をはめた拳が突きつけられた。
「その前に、いっちょ付き合ってくれない?」
いいながら凛は軽い足取りでフットワークを駆使し始める。
「いきなり組めって言われてもね。確かに名前は聞いてるけど。どれぐらいデキる相棒なのか確かめるには、これが手っ取り早いでしょ」
たっ、たっと足音も軽くステップする凛に向かって、麗花もゆっくりと身体を開いて先ほどまでの続きの型を再開する。
「そのために朝駆けですか。ちょっと乱暴じゃありません?」
そう文句を言いながらも、麗花の口元には微笑が浮かんでいた。
すうぅぅぅぅ。
麗花は朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、それによって体内に生まれた『気』をゆったりとした動きで全身に行き渡らせる。
「そっちの生活サイクルに合わせたつもりだけ……どっ」
ひゅ、風が鳴って、凛の身体がくるっと一回転し、足先がかき消えた。
ゆら……ぱし。
しかし、視線を動かしもせず、毛筋ひとつ乱さずに、麗花はその蹴りを掌で捌いた。
はあぁぁぁぁ。
と、ゆっくりと息を吐き出し、腕全体と身体をそれぞれ回転させる。
「うわっと」
凛は蹴りを捌いた掌から伝わってきた回転力に吸い込まれるように、凛の身体は宙に浮いていた。
ぐるん、と無様に一回転して地面に叩きつけられる寸前、凛は全身のバネをつかって宙で思い切り身体を反らせた。
凛の手足が青白い光を放って、宙に舞う。
「よっと」
空中でトンボを切るように回転し、凛はすたっと軽やかに着地した。
「お見事」
麗花は素直に感嘆の声をあげた。
「それが太極拳?」
再びステップを使い始めながら、凛は尋ねた。
「ええ。初歩ですけど」
麗花は優雅に舞いながらにっこりと笑った。
「遠慮する必要はなさそうだね」
凛は心底嬉しそうに笑うと、意識を手足に集中させた。
と、手先足先から青白い光が吹き出した。
「あなたも『気』を使うのですか」
凛の身体から溢れ出した膨大な『気』にやや圧倒されながら、麗花は思わず尋ねていた。
「さあ? アタシはただ『オーラ』って呼んでるよ。念力ほど便利じゃないしね」
この能力こそが、凛が「オーラシューター」「オーラグラップラー」と呼ばれる理由である。
念動力といった制御できる形態ではないが、圧倒的な威力で吹き出す念の炎。ときに刃となり、ときに盾となり、凛の格闘能力を数百倍に跳ね上げる、天性の超能力だ。
「『気』と念力は違うものですよ」
荒削りで我流ながら、麗花が数時間かけて練り上げた以上の密度の『気』が無尽蔵に溢れ出すのを感じ取り、麗花は表情を引き締めた。
「では。こちらから」
「その気になったみたいだねっ。そうこなくっちゃ」
凛がうそぶいた直後、麗花の身体がゆらりと揺れた。
ぱぁあん!
顎に衝撃を受け、凛は目を瞬かせてよろめいた。
「な……」
しかし、とっさに顎の前の空間に手を伸ばし、そこに感じた細い腕の手応えのまま、本能的に飛びついて我流の関節技を仕掛ける。
「すうぅぅぅぅ」
しかし、麗花の呼吸音とともに何故か身体が思っても見ない方向へと回転させられ、関節技は失敗に終わった。
そのまま、トンボを切った凛は拳と蹴りを連続して麗花に向かって放つが、それは次々に捌かれてしまい、体勢の崩れたところでまた麗花の身体がゆらりと揺れ。練り上げた『気』を打ち込んでくる。
それを腕を交差させて受け止めた凛がわずかにたたらを踏み、麗花を睨みみつけた。
それに対して、麗花も型を演じながら睨み返す。
「ははっ」
「ふふっ」
視線と視線が真っ向から絡み合った瞬間、知らず、凛と麗花それぞれの口から笑いがこぼれていた。
「あーあ、やる気うせた」
凛はそういって構えをとき、ステップを止める。
「では、改めてお茶でもいかがですか?」
麗花も型をといて一礼すると、にっこりと笑って母屋へと歩き出す。
「冷たいのがいいな」
凛も応じて歩き出す。
「あとさ、朝飯もよろしく。腹ペコだよ」
小走りに麗花に追いついた凛は、大きく伸びをして笑った。
「そうですね。これから厳しい任務が待っていますものね」
麗花は表情を引き締めた。
次回予告
機械仕掛けの天使