とある屋敷の一室。
甲高い犬の鳴き声がそこに眠る少女の眠りを妨げ、覚醒へと導く。
「もう……なによこんな時間に……」
少女は不機嫌な表情のままベッドから起き出す、他者による目覚めとはそういうものである。
しっとりと汗ばんだ身体に、すみれ色の髪の毛が絡みつく。
彼女の名はヘル。
北欧神話において死を司る女神と呼ばれている女性である。
オーディンにより冥府ニヴルヘイムへと投げ込まれ、以後支配者として冥府を治めているとされる。
北欧神話においては、神々も死を避けることはできない。ゆえに冥府を支配していたとする彼女の力の偉大さも絶大なものであったと思われる。
その名前には隠すものという意味があり、キリスト教における地獄も語源を同じくしている。
すでに日は高く昇っている。普通の目覚めとしては遅いと思える時間帯だが、暗く冷たい冥府の記憶が残るのか、明るい世界にはまだ少し抵抗があるようだ。
家の外の喧騒はまだ収まっていない。彼女の家を守る番犬が騒いでいるようだ。
「今日はやけに騒がしいわね」
そう言って本格的にベッドから起き出すと、薄い部屋着をはおり玄関へと向かった。
「ちょっとガルム騒々しいわよ」
忠実な番犬の騒々しさに、勢いよくドアを開ける。
「がうがう」
「きゃうんきゃうん」
そこには2人の犬耳の少女が、ドロだらけになりながらじゃれ合っていた。
赤い首輪をした女の子が、ガルムである。
彼女は、ヘルと共にこの屋敷に住むヘルのボディーガードである。
北欧神話の中でもガルムは、冥府の中にあるエーリューズニルというヘルの館を守る番犬の役割をしている。
一度鎖から解き放たれたガルムは、神々と対等に渡り合える力を持つといわれている。
もう一人は、ふわっとした長い銀髪から犬耳をひょっこりと生やした女の子が、ヘルの声に気付き、耳をピクピク動かすと、振り向きながらひとっ飛びでヘルに目掛け跳躍する。
あざやかな弧を描きダイブする女の子を、慌ててヘルが抱きとめる。
「ひーさーしーぶーりー♪」
しっかりと抱きついて、懐かしそうに頬ずりするこの子は、フェンリルという。
フェンリルとは、北欧神話にその名前を残す最強の魔物である。終末の戦い、ラグナロクにおいては、最高神であるオーディンさえ飲み込んでしまうと予言されている。
ダークロアでは白狼、銀狼、輝狼とも呼ばれ、その冷気を使う能力には、名を聞くだけで震え上がる者も多い。
「姉さん?フェンリル姉さんね、突然だからびっくりしちゃったわ」
「くんくん、懐かしいなー。近くに来たら懐かしい匂いがするから寄ってみたんだ。ガルムちゃんにも会いたかったし」
「わおん」
ガルムも笑顔で応える。
北欧神話においてヘルとフェンリルは、ロキを父、女巨人アングルボザを母に持つ姉妹である。
一説にはロキがアングルボザの心臓を食らい、生み出したともされている。
フェンリルが長女、ヘルは末っ子、その間にヨルムンガンドを加えた三姉妹である。
「おねぼうさんだね、ヘルちゃん」
「いいでしょお客さんの予定なんか無いんだから、普通はこれでいいのよ」
「これでヨっちゃんがいれば勢揃いなのにね」
フェンリルの言うヨっちゃんとは、ヨルムンガンドである。
「姉さん、噂をしたら来ちゃうわよ、ヨル姉さん」
海岸線の方に3人の視線が集中する。
すると、突如水飛沫が上がり人影が飛び出した。
「ただいまー!」
大きく元気な声を出し現れたのは、鮮やかな海のエメラルドグリーン色の髪をツインテールにした、女の子である。彼女の下半身は、髪と同じエメラルドグリーンの鱗に覆われた蛇の様な外見をしている。
彼女がヨルムンガンドである。
北欧神話の中でヨルムンガンドはミズガルズオム、ミズガルズの大蛇とも呼ばれている。
その身体は成長すると、人の住むミズガルズには入りきらず、世界一周した己の尾を咥える事が出来るほどの大きさになると言われている。
「……」
ヨルムンガンドは、ビックリさせようと飛び出してきたのは良いが、周りの反応の違いに空気の差を感じてずぶずぶと水の中へ戻って行こうとする。
「ヨっちゃんおかえりー♪」
「わおん」
そう言うが早いか、フェンリルとガルムはヨルムンガンドに抱きついていた。
「わわわ、フェンリルお姉ちゃんもいる♪。ガルムちゃんとヘルちゃんだけだと思ったのに」
思わぬ再会の場となった事に、ヨルムンガンドも嬉しそうにぐるぐると蛇の様に抱きつき返す。
「ホントに来てるなんて、まったく姉さん達は予測不能だわ」
ヘルは、天真爛漫な2人の姉には敵わないと嬉しそうに笑顔になる。
普段は末っ子のお嬢様のようにわがままを貫くヘルだが、もっと手のかかる姉2人の前ではいい妹の役回りになってしまう。
「とりあえず泥だらけになっちゃった体を洗いましょう、そうだみんなでお風呂よ」
気付けば泥だらけのフェンリルとガルム、その2人に抱きつかれたヘルとヨルムンガンドも泥だらけになっていた。
「やったー♪みんなでおっ風呂」
「お風呂はやだよー、水浴びでいいよー」
ヨルムンガンドと違いフェンリルはお風呂が苦手である。
「ダメだよおねえちゃん、私がやさーしく洗ってあげるから♪」
「フェンリル姉さんは、暖かい水が気に入らないだけなのよね」
「いらないよー」
そう言ってフェンリルは逃げ出そうとする。
「ガルム!フェンリル姉さんを捕まえなさい!」
ヘルが命令すると、ガルムはすまなさそうにフェンリルを捕らえ、そのまま皆で屋敷の大浴場に向かった。
「ふうっ」
ヘルは浴槽に浸かると大きなため息をついた。
この2人の姉とお風呂に入ると、改めて大変だと思い知らされた。
フェンリルは何度もお湯を氷に変えて冷やしてしまおうとするし。
ヨルムンガンドの尾は極端に長く、この屋敷の大浴場でも入りきらないほどだ。身体全てを洗うには皆で手伝っても相当な時間がかかりそうだった。
やっとお湯の中でゆっくりとできると、ヘルは笑顔になる。
(こんなに騒がしいのも、たまにはいいかもね)
普段から来客も少なく静寂に包まれた屋敷が、今日は騒がしいぐらいだ。
ぱたたたた
真っ先に風呂を上ったフェンリルが、犬のように全身を振って身体についた水を撒き散らす。
あわててガルムがバスタオルで包むと、今度はふかふかのバスタオルを気に入ってゴロゴロしだす。
(まあ、毎日は耐えられ無さそうだけど)
そんな光景を横目に見ながら、ヘルはしばしの喧騒を楽しんでいた。
風呂も終わって夕暮れ時になり、ヘルとガルムが夕食の準備をしだすと、匂いを嗅ぎ付けフェンリルが厨房に現れる。先ほどのバスタオルが気に入ったのか、まだ持ち歩いている。
味見と言いながらパクパクとつまみ食いすると、少し空腹が収まったのか、ソファーで座ったまま眠り始めた。
準備が終わるまでは静かにしてくれるようだ。
やっと食事の準備が整うと思ったとき。
みし、みしみしみし
突然屋敷が軋みだす。
めき、めきめきめき
音は大きくなり、破砕音までが出始める。
「何事?」
「きゃうん?」
フェンリルは耳をひくひくさせて起き上がる
ガルムはヘルとフェンリルを守るように傍で警戒する。
「ガルム、ヨル姉さんの所へ……」
自分とフェンリルは大丈夫だからと、ヘルは身体を乾かしに行ったであろうヨルムンガンドの元へガルムを行かせようとした瞬間、この異変に思い当たるものがあった。
「ヨっちゃんだ!」
「ヨル姉さん!」
同時に声を発したフェンリルとヘルだが、その声を掻き消すほどの勢いを持って破砕音は近づいて来る。
そのまま3人は、崩れる屋敷の音と瓦礫に飲み込まれた。
音と煙が収まったころ、フェンリルによって瞬時に作られた、氷でできた頑丈な避難所に逃げ込んだ3人は、ゆっくりと外に出た。
すーすー
辺りは静かな寝息が聞こえている。
「ふぅ、寝る子は育つって言うけど、育ち過ぎよ姉さん……」
無邪気な笑顔のまま横たわる、巨大化したヨルムンガンドの寝顔にヘルはそう呟いていた。