アクエリアンエイジ フラグメンツ〜望刻の塔〜

断片3

  深夜。
  そして無人。
  非常口を示すグリーンの誘導灯だけが、無機質に光っている。
  斎木インダストリー本社ビル。その広大なエントランスホール。

  長い髪が揺れる。
  小石川愛美と、足元から伸びる彼女の長い影が、小さな足音をひびかせて歩く。
  こそこそした態度はない。堂々としたものだ。

  ビル内に入り込むのは簡単なことだった。
  単に、金属製のドアを「よいしょ」と言って開け、裏口から歩いて入っただけだ。ちょっと特技を使って、隣接の警備室をごまかしてやる。それだけのことで済んだ。

「さて、どうしようかな……」

  どのくらい「ちょっと見てきた」ら、藤宮真由美は満足するだろう。

  とりあえず、SFタワーというくらいなのだから、タテに長いのだ。屋上まで行って戻ってきたら、ひととおり見てきたことになるだろう。そのくらいが精一杯だ。

「となると、エレベーター」

  エレベーターの防犯カメラに写るのはかまわないことにした。警備室はしばらく機能停止しているし、他の警備室から人が来ても、やりすごすのは簡単だ。

  エレベーターに乗って、ボタンを押した。
  階数表示を見ると、一気に屋上までは行けない構造になっているようだ。たぶん、2回ほど乗り換えが必要になるはずだ。
  耳がつんとする。
  ガラス張りのエレベーターから、外が見下ろせた。街の明かりが下方に遠ざかっていく。

  ドアが開いて、小石川愛美はフロアに出た。
  暗い、無人の廊下がのびている。
  廊下はビルの外周沿いに、カーブを描いている。奥手が見えない。この廊下の先に、次のエレベーターホールがあるはずだ。

  影と足音をつれて、歩く。

  と。

  初めて、人がいた。

  その人物は、愛美と同じく廊下の先へと向かっているところだった。
  そいつが足を止めて振り返った。

  その姿が。
  とてつもなく、奇妙だった。

  なにあれおかしい、というのが愛美の心の声だった。髪の長い若い女だった。それはいい。自分と同年代くらいだろう。それもOK。初詣に行ったときに窓口で破魔矢を売っている人のような格好をしている。赤い袴に白の小袖。要するに巫女の姿である。それすらも許容するとしよう。

  何故バニーガールの耳をつけているのだ。

  そんな女が両手に麻雀牌をいっぱい持って、「ほっ・ほっ・ほっ」とかけ声をあげてお手玉をしており、その人影が薄暗い廊下に不気味に長く伸びていて、それが急に振り返ったときの率直な感想を想像してみるとよい。

  変な人がいる。

「特徴のない地味な女がいる」

  とウサギみみをつけた巫女が言った。

  それはあなたに比べたらたいていの人間は没個性でしょうよと愛美は思ったが、初対面の人に強い態度に出られない性格なので、口には出さなかった。

  ウサギみみ巫女が香港映画みたいな衣擦れ音をさせて構えを取る。

「一人で私を追跡するからには腕に覚えがあるのだろうが……」

  ウサギみみ巫女が大道芸のように宙に麻雀牌を舞わせる。

「手柄を立てる機会を邪魔されてはかなわぬゆえ……」

  ウサギみみ巫女が素早く手を動かすと、麻雀牌が手のひらの上に一直線に“立って”いた。

  そして積み上がった麻雀牌を両手で挟んで横向きにし……、

「消えてもらうでござる!」

  ……ござる?

  愛美の脳内がはてなマークでいっぱいになった。と思った瞬間、ウサギ女の手の中の麻雀牌が弾けた。
  ひとつながりに揃った牌が、ふいに蛇のようにうねった。
  一連の牌が、見えない糸でつながれたように長く伸び、鞭のようにしなる。

  さっきまで愛美がいた場所を、見えない力場の鞭が叩く!

「っぶなあ!」

  間一髪でよけた愛美が心の底から気持ちをこめて言った。当たってたらどうなっていただろう。少なくとも、すっごい痛いのはまちがいなさそうだ。

「ばかもの、よけるやつがあるか!」
「て言われてもぉ……」

  ウサギ女は話を聞かない。
  彼女がスナップをきかせて腕を振ると、白衣の袖から新たなひとつながりの麻雀牌が手の中に滑り出た。映画『タクシードライバー』の袖口銃みたいで、敵ながらちょっとかっこいい。

  愛美は覚悟を決めた。破れる覚悟ではない。

「あのぉ」
  おそるおそる手を挙げて、愛美が言った。
「撃っても当たりませんよ?」

「命乞いならあとで聞くでござる!」

  あとがあるんだ? と愛美は思ったが、それを口にするいとまはなかった。

  ひとつらなりになった雀牌が、またウサギ女の両手にはさみこまれて……。
  その手の中でまた爆ぜた。

  先ほどのような鞭の打撃ではなかった。雀牌の弾丸はこんどは放射状に広がって弾けた。散弾銃のように面を構成する射撃だ。そしてここは広いとはいえない通路。

  よけようがない。

  はずだった。

  愛美は息を止めて、
  飛んでくる弾丸を、
“視”た。

  愛美の耳元で高周波じみた金属的な音がした。それは愛美が能力を使うと必ず聞こえる音。いわば能力起動音だった。

  はじけるように飛んでくる雀牌の弾丸が、
  空中で停止している。
  ウサギ耳の巫女も凍ったように停止している。
  世界そのものが停止したように見える。

  これが小石川愛美の特異な能力。

  時を止める……。
  いや、正確には止めているのではない。

  自分、および他人の体感時間を操作すること。
  警備室を何の問題もなくパスしたのも、この力ゆえだ。警備員全員の体感時間を極限まで加速させ、愛美が通行するのを知覚できなくした。もし彼らが時計をじっと見ていたとしたら、秒針がルーレットのような速度で回転するのに気づいただろう。

  いま、愛美は、自分の体感時間を減速している。

  彼女は現在、1秒が30秒のように感じられる時間流のなかに生息している。よく見ると、雀牌の弾丸がゆっくりとこちらに飛んでくるのがわかる。

  小石川愛美は、ごくゆっくりと、前に歩み始めた。
  ゆっくりと、というのは比喩や誇張ではない。
  彼女が操作できるのは体感時間だけだ。つまり、小石川愛美はいつもの30分の1のスピードで前に進んでいる。足を上げ、下ろす……。そんなことにひどく長い時間がかかる。それがもどかしい。

  だが、ゆっくり飛んでくる弾丸を、ゆっくりした動きで避けるのは、簡単なことだ。

  スローモーションになった自分を感じながら、あるときには首をそらし、体を曲げ、ひとつずつ着実に弾丸をかわして、前に進んだ。
  数学のテストで時間が足りないときに便利だとか、いつか彼氏ができたらこれで2人の時間をたっぷり感じたいとか、そんなことしか考えていなかったのだが、こんな使い方もできるのだ。自分でも少し驚いている愛美である。

  そうして、すべての弾丸が背後に過ぎ去ってから、小石川愛美は時間流を収束させた。

  ウサギ巫女がぎょっとしている。
  彼女の目には、こう見えたはずだ。
  すなわち……。

  放射状に広がる麻雀牌の散弾、その弾丸のスクリーンを、目の前の相手は平然とすり抜けて歩いてくる。

「ばかな。わが108つの奥義のうち第1024番めをたやすく破るとはっ」
「いいけど、どういう数え方してるの?」
  愛美は思わずつっこむ。
  本来、知らない人に強く喋る性格ではないのだが、相手の言うことがいちいち変なので、つい口を挟まずにいられない。

  ウサギ巫女は芝居がかった調子で天をふりあおぎ、がっくりと膝を落とした。

「わが第4096式を破られたからにはじたばたすまい。この首持って行けい」
  その場にあぐらをかいて座りこむウサギ巫女。
  ――さっきと番号違うし。

「首とかはいらないんだけどぉ……」
  愛美は少し考えた。
  この変な人が、藤宮真由美の言っていた「青白い人影」だろうか?

「ちょっとうかがいますけど。あなた、最近、よくここで遊んでる人です?」
「異なことを。これは私のデビュー戦でござる」
「あそう……ところでウサギさん」
「ウサギ耳をつけているからウサギさんなどと普通のことを言ってどうするっ!」
「むちゃくちゃ言うなあ……」
「桜崎翔子、と呼ぶことを特別に許す」
「偉そうだなあ……名前も言い方も」

  まずいなあ、ちょっと楽しくなってきちゃった、と愛美は思う。

「桜崎翔子さん、あなたこんなところで何しているの?」

  こういうことであった。
  彼女……桜崎翔子は霊脳集団「阿羅耶識」の新人である。
  ある日彼女は、SFタワー、すなわち斎木インダストリービルから「魔女の匂い」がするのに気づいた。
  SFタワーといえばE.G.O.の息のかかった場所。そこに魔女の匂いとなれば、E.G.O.とWIZ-DOMが密かに手を組んで良からぬことを考えているのであるか。
  その証拠をつかんで手柄としよう。ついでに、自分の力をここで試してやろう……。

「ということは、狙いはおんなじ、互いに人違いということね」
「貴公は斎木のエージェントではないのでござるか?」
「私が? 私の所属団体といえば学校とそろばん教室くらいよ」

  ふむ。
  この子どうしよう。愛美はちょっと困った。
  たぶん、セカイのハケンとか、トーソーとか、そういうことを本気でやっているヒトたちは、こういうとき殺しちゃったりするのだろう。
  でも、そういうことは考えたくないというか、論外というか、血とかどばどば流れたりしたら見てるこっちがクラっときちゃうというか。

  かといってほっとくと邪魔されそうだし。というか、ほっとくと押しちゃいけないボタンとか押しそうだし。
  そんなことを考えながら、愛美は無意識にうろうろと歩き回っていたようだ。

  それがいけなかった。

  愛美は転がっていた麻雀牌を踏んづけた。
  ずるっと滑った。

「あわっ」
「わーはははは! ぬかったな! 油断大敵貧乏毛だらけ、逆転の倍満直撃だあ!」

  ウサギ巫女こと桜崎翔子は跳ぶように立ち上がり、獣のように愛美に飛びかかった。

 ……いや、飛びかかろうとした。

  飛びかかろうとした桜崎翔子は、何かに気づき、ふいに表情を変えて、愛美の足元に飛び込み、転がっていた雀牌をひったくった。
「あああーっ! わーっ! なんちゅーことすんのよー! 踏んだね、踏んだよね? 私の景徳鎮欠けちゃったじゃないのよ! いやー! やめてー! たたくとちんちんいい音がなるけーとくちーん! ひどーい! さいてー! キズモノにしたわねー! 責任とってよ! オニか! 悪魔か! ダークロアかあ!」
「えっとぉ……」
「いいわけはじごくできくわーっ」

  ああ、これが素か。
  愛美は半笑いで指摘した。

「えっとぉ……“ござる”は?」

  騒がしい桜崎翔子がぴたりと止まった。別に愛美が力を使ったわけではない。
  そして桜崎翔子は言った。

「……で、ござるっ」

 

         ☆

 

「え!? ちょっと、何? 敵襲!?」

  竜の国の公女ソフィー・ラスタバンは騎竜アルゴスの上で目をみはり、何度も周りを見回した。
  彼女と、その護衛の空中竜騎兵中隊は、移動中に突然、地対空砲撃を受けたのだ。
  飛竜が一匹、直撃を食らった。
  気性の荒い無数の竜たちが、一斉に、怒りに身を任せて絶叫する。打ちつけるようにひどく翼をはためかせ、鼓膜をつきやぶるような雄叫びをあげて、空中でのたうちまわる。

「あれは友軍です! ベレニケ駐留の砲戦部隊です!」と副官が叫ぶ。
「ウソ!? なんで!? ……じゃなくて、編隊を再構成して! 竜笛を吹いて! ああもう、ほらそこ! 暴れない!」

“竜洞の主は空で取り乱すべきではない”
  大師兄シャルルマーニュはいつもそう言っている。まだ経験の浅いソフィー・ラスタバンは、かろうじて竜の支配者らしく命令を下した。
  部下の竜騎士たちが竜笛を吹く。

  ――おかしい。

  ソフィーの背筋がぞくっとする。
  竜がおとなしくならない。
  竜笛が鳴って命令を聞かない竜など、ラスタバンの竜兵のなかに一匹だっているはずもないのに。
  地上から轟音が立て続けに鳴り響いている。
  ベレニケの対空砲が、こちらへの攻撃をやめない。――誤射ではないの?

  何かが起こっている。

  彼女のアルゴスさえもが、聞いたことのないうなり声をあげている。金竜アルゴスは、敵襲を受けたくらいでむずがったりはしない。

  地上の友軍が狂っている。
  彼女の竜たちが狂っている。

  ――攻撃を受けたから怒っているわけではないのね?

  ソフィー・ラスタバンは体を大きく横に傾けた。アルゴスが反応して、大きく旋回する。

「……いた」

  あれだ。
  見つけた。
  ソフィーは風に乗ったままそれを見下ろした。
  城塞都市の城門に刻まれた、巨大な石像……“ベレニケ”。
  狂える天才彫刻家が彫り上げた、意識を持つ女神像。戦いの歌をうたって味方を鼓舞し、敵をはね返す守護女神。

  ソフィーの耳に、ベレニケの歌声が聞こえた。
  聞こえるはずがない。飛行中は風の音がひどいのだ。
  でも、聞こえる。たおやかな歌声。頭の中に直接響くような歌声だ。

  それを聞いた瞬間に、ソフィーの頭の中がざらついた。
  竜たちが狂ったのは、あの歌声のせいだ。

  そして、ソフィー・ラスタバンは、ベレニケ像の大きな頬のそばに、白い女が立っているのを見た。

 

  轟音。
  地震のような地鳴りを響かせて、城塞砲が火を噴く。
  城門に刻まれたベレニケの像が、歌っている。悲鳴にも似たアルトの歌声。

  巨大な女神像ベレニケ。
  その大きな顔のすぐそばに、小さな少女がいた。

  城の外壁にちょっとした足がかりを見つけて、そこに立っている。
  ベレニケの頬に寄りそうようにしている。

  ほとんど銀色にちかい金髪が、風に踊っている。
  袖のない無垢のワンピースがはためいている。

  少女がささやく。その声は風にかき消され、彼女自身と、ベレニケにしか聞こえない。

「ヘロデ王の娘と同じ名を持つ塔よ。ならばあなたも神の家につながりを持つ者……。私に力を貸して……」

  その声を聞いてか、ベレニケがより高く大きく歌う。
  城塞砲がビートを刻む。

  そのベレニケと少女に、空から竜が近づいてくる。
  赤い衣の竜公女が乗った黄金の竜だ。
  あふれるほどの竜の毒液を口にためている。大気に反応して発火する強酸の液体だ。

  その場から動くことのできないベレニケの眼前で、竜は大きく顎を開いた……。

   

  桜崎翔子

桜崎翔子 イラスト:高田裕三

 
  阿羅耶識にいちおう所属する謎の少女。どのへんが謎かというと、巫女装束を着ているが巫女ではなく霊能者でもない。バニーカチューシャを着けているがお水の商売ではない。麻雀牌をじゃらじゃらさせているが渡世人でもない。

  小袖+袴の姿でないときも多い。が、まともな服を着ていることは少ない。

  物体から「力」を抽出して操り、放出する能力を持つ。取り出せる力はモノによって異なり、個性が強いものほど強い力を取り出せる。
  たとえば何の変哲もない石ころと、変な形の石があったとしたら、後者のほうが何倍も強い力を蓄積している。

  このためか、彼女は没個性を嫌い、普通さの中に埋没することを何よりも嫌がる。勢い余って自分にウソくさいキャラづけをすることもある。「ござる」は意図的。飽きたらやめる。

  麻雀牌の弾丸技は、配牌がゴミ手だと弱く、テンパイに近いほど強力。宙に投げた多数の麻雀牌を一瞬で選別して「積み込」むことで、意図的に強力な技を出すこともできるが、集中が必要なので連射がきかない。ちなみに彼女は、積み込みなしで天和を出した経験は一度もない。

  使用条件が厳しいものの、文字通りの「必殺技」をいくつか持っているようだ。SFタワーで見せた実力はほんの一端にすぎない。

 
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