アクエリアンエイジ フラグメンツ〜女帝の聖楔〜

断片1「仙界の女帝」

 崑崙山に、各務柊子がいた。

 秘境・崑崙。そこはアジア大陸のどこかにあるとされる伝説の場所。仙人たちが住まうという異郷である。
 仙人になれるとも、不老不死になれるとも噂されている。
 生きた人間のまま辿り着いた者は、有史以来、数えるほどしかいない。

 各務柊子は晴れてその1人となったのである。
 とはいっても、柊子は仙人になるつもりでも、不老不死になるつもりでもなかった。

(どうも、思ったより何にもない場所だよなァ)

 と柊子は思ったのだが、これは彼女が現代の感覚に毒されているからである。

 露をふくんだ緑の草花が、じゅうたんのように豊かに地面を覆っている。
 人界で見るよりはるかに色濃い空が、足元にまで広がり(そう、ここでは空を「見下ろす」ことだってできるのだ)、浮かぶちいさな雲々は、手にとって、その絹のような肌触りを確かめることもできる。
 ねじれた枝たちを漏斗のように天へと広げた桃の林が、みっしりと青葉を繁らせ、みずみずしい果実を実らせている。

「何もないどころか、すべてがあるじゃないの。そうではなくて?」

 と、柊子の師範代兼友人となった碧霞元君は、「これだから人間は」といったあきれた調子で言ったものであった。

 いま、各務柊子は、頭を草の地面につけ、足を空に向けて組んでいる。
 つまり、一点倒立の逆さ状態で座禅を組んでいた。
 もうかれこれ一ヶ月も、このままである。
 天の気を地の気に変え、地の気を天の気に戻す、それを自ら体内でできるようにするための「陰陽相生の行」とかいうそうだが、そんな境地に至れたような気分には、柊子はさっぱりなれない。

 女仙がひとり、桃の林から姿を見せた。笊を持っており、熟れた桃の実を、3つか4つ、選んで木からもいで、柊子のところに近づいてきた。
 胸の谷間を開けっぴろげに外に出して、腰のくびれのところにまで横スリットの入った中国ドレスを着た、長い黒髪のとんでもない美女だ。もし柊子が男だったら、色香で悟りを妨害しに来た妖怪か何かと思うところだ。
 その女仙――碧霞元君は柊子の前でしゃがみこんだ。

「どぅお、つかめた?」
「さっぱり」
「才能ないわねぇー」
 碧霞元君はみもふたもないことを言ったが、女仙の貫禄なのか、あまりにあっけらかんと言うので、腹も立たない。 

 女仙人はぬるりとした妖艶な動作で、笊の桃をひとつ手に取り、柊子の口に強引にあてがった。柊子がかじりつくと、碧霞元君は手を離す。柊子は手も使わず、逆さになったまま、器用に口だけで桃を動かし、果肉をかじりとると、最後に残った種をかみ砕いて飲み込んだ。
 仙果――すなわち西王母の仙桃である。柊子がこの仙界で特に気に入ったものだ。これがあれば、地上の食べ物はひとつも懐かしくない。桃だけ食べて生きていくことになっても平気だ。食べ放題なのもありがたい。
 帰るときには、おみやげに持っていきたい……と碧霞元君に相談したのだが、

「人界に降ろすと、妖怪化するから、ダメ」

 と言われて、しぶしぶあきらめたのであった。

「こうよ、こう」

 碧霞元君は、柊子の前で、頭だけで逆立ちして、足を組んだ。つまり柊子と同じポーズを取った。スカートが大変なことになったが、そんなことを気にする女仙でも柊子でもない。

 とたんに柊子は、天地が入れ替わったような感覚をおぼえた。

 上下の感覚が失われた。無重力状態とはこういう感じではあるまいか。首の骨で体重を支えている、という事実をまったく意識できなくなった。
 碧霞元君の頭上から、何か見えない流れが入り込んで、腰から抜け出していくのが、感じられた。
 碧霞元君の腰から、何か流れのようなものが入り込んで、頭のてっぺんから抜け出しているのが、感じられた。
 やがて、自分の身体にもそれが起こっているのがわかった。頭から何かが入り込んで腰に抜けてゆき、腰から何かが入り込んで頭に抜けていった。

「それがひとりでできるようになったら良いのだけどねぇ……」

 碧霞元君が頭だけで飛び上がって器用に上下を入れ替える。つまり地面に座り、頭を天に向けた通常の坐位になった。とたんに柊子から、宇宙じみた感覚が失われる。

「うん、もういいわ。元に戻って」
「いいの?」
「ハハさまがお呼びよ」

 各務柊子は背筋を使って頭で飛び上がり、身体を反らせて地面に着地した。首を動かし、背骨をストレッチする。ボキボキ音がする。

 柊子は碧霞元君に連れられて、城くらい大きな廟の前に立った。

 広場のような場所があって、その奥に、十段くらいしかない幅広の階段がある。階段のすぐ奥に両開きの扉。左右は回廊になっていて、柵がしつらえてある。
 階段も柵も扉も、廟そのものにも、金細工があしらわれてある。

 柊子は拳を手のひらに当てて、拳礼をする。

 階段の上に、簡易の玉座がしつらえられていて、金糸で飾られた羽衣をまとった、冠をかぶった美少女がちょこんと座り、柊子を見てにこにこしている。
 階段の中ほどのところには、それよりも少し幼い、おだんご頭に結った小柄な少女がいて、階段脇の柵にしなだれかかっていた。
 玉座にあられるのが“ハハさま”――仙界の女王、西王母であられる。
 階段の少女はこれも女仙、九天玄女であった。
 碧霞元君は階段を使わずに、手すりをひらりと飛び越えて回廊に上がった。これで下座にいるのは柊子だけになった。

“ハハさま”という愛称が不似合いなほどうら若い西王母が、にこにこしたまま声をかけた。
「各務」
「はい」
「修行の進みは、いかが」
「天仙娘娘のおっしゃるには、才能がないそうです」
 天仙娘娘とは、碧霞元君の愛称のようなものである。
「それは困りましたねぇー……」
 と西王母はにこにこしたまま言った。
「でも、少しは得たものがあるのでしょう」
「はい」
「では、修行の成果をお見せなさい」
「何をお見せすれば」
「そぉねぇ」

 西王母は唇に扇を当てて、笑みを含んだまま言った。

「では、酔八仙拳の演舞でも。呂洞賓の構えから」
「だから私はジャッキーじゃないんですよ!」

 西王母様の「仙界ボケ」であった。柊子はいいかげん慣れていたので、ツッコミにキレがある。

「まったく、なげかわしいわ、この仙界崑崙、八大仙の膝元でそなたはいったい何を学んだというのか」
 九天玄女がツンと顔をそらして憎たらしいことを言った。
「少なくともジャッキー映画のモノマネじゃないです」
「簡単なのに」
 九天玄女はひらりと地面に飛び降りた。そして腰を落として両手に杯を持った呂洞賓の構えから、二、三度身体を揺らして酔った感じを出すと、裏拳で左右からの攻撃をさばき、相手の喉笛をつかみ、目つぶしをし、体当たりからのヒジ打ちをかける酔拳の基本形を披露したあげく、大きく身体を後ろにそらして大甕から酒を飲み干す仰身飲酒勢のポーズで決めてみせた。
 あげくに言った。
「はい、では例の映画を百回見て、できるまで自習しておきなさい」

 女仙の皆さんは、よってたかって、ボケをひっぱり続けるくせがあるので、勘弁してほしいと柊子は思っている。

「ていうか、仙人の皆さん、ジャッキー映画なんか見てるんですか。どうやって」
「柊子何をおっしゃってるの? 最近の仙界にはインターネットも通じているし」
「えー」
「動画サイトは見放題だし、携帯も通じるし。スキャンレーションやファンサブで日本のマンガやアニメも3日くらいのタイムラグで入ってくるのよ」
 異常にフランクだな仙人界。
 本当に大事なものはすべてここにある、みたいなことを言っていたいつかの碧霞元君のセリフが空しく思い出される各務柊子である。

「各務」
 と、西王母がにこやかに声をかけた。

「はい」
「そなたは充分に強くなった。それを認めます。例えるならレベル99で王様に会ったくらい」
「はぁ」
 仙人の女王様の言葉に、気のない返事を返してしまう。
「ですから、免許皆伝とします」
「え? でも」
「と思いましたが酔拳ができないから準・免許皆伝」
 きちんとスカしを投げてくる西王母様である。
「ですがハハさま、私はまだ陰陽相生の行を会得しておりません」
「ああ、あれはあと百年くらい続けないと無理だから、今できなくて良いです」
「は? え?」
 碧霞元君が手すりから身を乗り出して口を挟んだ。
「柊子なら半月くらいで会得するかと思ったんだけど、さすがに無理だったかしら。さすがにそこまでの才能はなかったみたい」
「そうねぇ、私もできそうに思ったのだけれど」と西王母。
「才能ないのよ、がっかりですわ、失望よ」と九天玄女。
「…………。いや、まあ、何にしても、ありがとうございます」
 釈然としない気分を胸一杯にためこんで、それでも各務柊子はそう言った。
「免許皆伝のしるしに、背中に“天”って書いてあげるわ」と嬉しそうに九天玄女。
「あら、それなら“亀”のほうが良くはなくて?」と、これは碧霞元君。
「私思うんですけど、“カメハメ”ってひわいな言葉じゃなくて?」
「そこが良いのよ」
「ねえ柊子」
 九天玄女が、下から柊子を覗きこむような姿勢で言った。
「いっそ、本格的に仙人になりませんこと?」

「仙人……」柊子は注意深く言った。「それは、なろうと思ったら、なれるものですか」
「それは修行のできしだいだけど」
「あの、まだやるとは言いません。言いませんが、例えばそれは、どんな修行を?」
「そぉねえ」

 九天玄女は、もし柊子が男だったら確実に恋に落ちそうな、輝くようなスマイルをした。

「ではとりあえず、ここにある水銀を1リットル飲むところから」

「死にますよ!」

「やあねえ冗談よ」
「冗談を真に受けて本気で飲んじゃう人、過去にいっぱいいたけど」と碧霞元君。
「それで千人に1人くらい、何かの間違いで本当に仙人になってしまうのだわ」と西王母。
「センニンだけに」
「おほほほほ」
 三女仙のおほほ笑いが崑崙山にこだまする。

 各務柊子は本気で日本に帰りたかった。


  碧霞元君

碧霞元君

 中国、泰山信仰の女神。女仙人。天仙娘娘、泰山娘娘とも。
 女性に加護を与える女仙として信仰されている。

 女性びいきで、女にはさまざまな便宜をはかってくれる反面、男性には淡泊に接する傾向がある。各務柊子が女性でなかったら、おそらく弟子には取らなかったと思われる。
 男性の修行者が崑崙に入山した場合、九天玄女が応対することになっただろう(そして水銀を1リットル飲まされることになっただろう)。

 辛いものが好き。彼女の味付けは人間が口に出来るレベルではない。


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