バーゼル。西にフランスはアルザス地方、北にシュバルツバルトを望む、スイス北端の都市である。
フランス、ドイツ、スイスの三国の国境地点であり、古来ヨーロッパの大動脈であったライン河が街の中を貫く利便性から、交易の中継地点として栄えてきた。
スイス最古の大学、バーゼル大学、ミュンスター大聖堂、ヨーロッパ最初の市民ミュージアムなどを擁するこの都市は、中世以来学芸都市としてもその名を知られている。
そのバーゼルの、ライン河を望む丘の上に、ひっそりと立つ学院があった。
WIZ-DOM魔法学院である。
表向きは海外有力子女向け全寮制学院だが、西洋魔術結社、WIZ-DOMの将来有望な少女たちを集め、一流の魔法使いとして育てるために運営されている。
既に設立以来千年を数える魔法学院の、膨大な蔵書が集められた書庫の中に、赤いケープを肩にかけ、栗色の髪をケープとお揃いのリボンで結んだ少女、マギナ・マグスはいた。
「けほっ、けほっ」
もうもうとあがる埃に、マギナはたまらず咳き込んだ。
ひとつ古文書を開くたびに舞い上がる埃の中、マギナは懸命に古代に失われた呪文の解読作業を行っている。
「掃除から始めたほうがいいかも知れませんね」
同じく埃に顔を歪め、マギナの元へ、蔵書棚から探し出しためぼしい古文書を運んでいる、ブラウスにスカーフ、半ズボンにタイツ姿の少年が、疲れきった表情で言った。
少年の名はルカ・フィス。男性としては百数十年ぶりの魔法学院生である。
事実上無限に近い魔力を持つという才能を評価されて入学した少年である。
しかし、本人にその魔力を活用する才能は乏しく、他の魔術師と共同でなんらかの魔術なり儀式なりを行うことで利用されない限り、その無尽蔵の魔力も何の意味も持たない。
一方のマギナは、魔力、呪文使用能力は平均的だが、古文書の発掘や、失われた呪文の再構成といった魔術知識分野において傑出した才能を持っている。
「ってゆぅか、使われなくなった呪文なんてどうせ大して使えないってばぁ」
美しい金髪を頭の左右で結い分けた少女、ルツィエ・フォン・フリッシュはぱたぱたと手を振って埃を払おうと試みる。
しかし、それは返って埃を巻き上げることにしかならない。
「そんなことないわ。触媒が希少すぎたり、効果が大きすぎたり、あるいは禁忌に触れることで封印された呪文の中には、今なら活用できるものもきっとあるはずよ」
マギナは、懸命に虫食いだらけの古い呪文書の文字を追いながら応える。
「そぅかなぁ〜」
不満そうに頬を膨らませながら、ルツィエは、マギナが不要と判断した古文書を元の位置に戻していく。
この三人は、魔法学院に同じ時期に入学した生徒のなかでは飛びぬけて優秀なため、よくこうして集まっている。
ルツィエが文句をいいながらもマギナを手伝っているのも、他に対等に話せる同世代が皆無に等しいためだ。
「呪文なんかつかわなくったって、敵なんか……」
本を片付け終えたルツィエは、マギナが向かう大机の端にひょい、と腰掛け、長くほっそりした脚を組んでぶらぶらとさせる。
机の端をつかんだ手の甲に刻まれた美しくも複雑な文様が妖しい光を放った。
ルツィエが呪文復活に興味がないのは、彼女の能力に起因している。彼女は、マギナともルカとも違い、生まれながらにその身に刻印された呪紋の力を振るうことができる魔女である。
魔女のサラブレッドともいうべきルツィエには、呪文、ましてや面倒なことこの上ない儀式魔術の必要性など、まったくピンとこないのも無理は無かった。
「ルツィエさんには必要ないかもしれませんけど、僕みたいな魔法使いには必要なんですよ。ジリアン校長にもディーナ先生にも、きっと役に立つはずだからしっかりやりなさいと言われましたしね」
「そうよ。防護魔法陣の手がかりと、悪魔と合体する呪文は発掘はできたんだし」
ルカの言葉に、マギナはうなずいた。
「使えるようにするにはまだ研究が必要だけど。悪魔合体の方は魔力の逆流が大きすぎて実用には相当手直しが必要ね」
「そのせいで封印されたんでしょうね。悪魔との契約は禁忌とされてきたことでもありますし」
言いながら、ルカは抜き出した数冊の革装丁の本の埃を払い、ざっとタイトルを読んでいく。
「『六惑星十字直列の災厄』……? これはどうですか?」
いいながら、その本を、マギナの座る机の上に積まれた本の上にさらに積む。
「ん〜」
その本を開いて、猛烈な速さで文章を読んだマギナは、ぱたん、とその本を閉じると、ルツィエの腰掛けた机の端近くに置いた。
「これ、グランドクロスのことね。ずいぶん古くて、今使ってる呪文の原型ではあるけど、もう役には立たないわ」
「戻しちゃうねぇ?」
尋ねながらも、ルツィエはひょい、と机から飛び降り、その本を肩に担いで歩き出した。
「……んーと、ここね。ん……しょ……」
分類を確かめ、背伸びして蔵書棚の一番上に戻す。と、棚板と書物の間に無造作に突っ込まれている薄い書物に気がついた。
ルツィエ自身もよくやるのだが、本棚の元の位置に戻そうとして収まりきらないときに、隙間に差し込むやり方だ。
寮の同室のマギナにはそのせいで小言を言われてばかりなのだが。
「昔の人も適当ねぇ……しょーがない、あたしがきちんと片付けてあげる……『恋の媚薬』? くふっ、おもしろそうじゃない?」
ルツィエは、可愛らしい顔に小悪魔の笑みを浮かべて、その書物の題名を見つめた。
「ふぅ……今年のバレンタイン商戦は惨敗ね……」
魔法学院内の倉庫で、純白のローブと純白の三角帽子姿のディーナ・ウィザースプーンは重いため息をついた。
「ま、しょうがないんじゃないですか? この戦時下じゃ、なかなかバレンタインってわけにもいかないですよ」
そうディーナを慰めたのは、赤い三角帽子姿の魔術師、リサ・マクドゥガル。
青の魔導師ソニア・ホノリウス亡き後、欠員が出たWIZ-DOM三大魔導師の本命と目されている少女だ。
魔法学院の上級生首席であり、その実力は高く評価され、実戦にも何度となく出ているものの、彼女はまだ魔法学院の生徒である。
リサ本人も、生徒のままでいるのが気楽だと考えている。
だが、今後のWIZ-DOMを背負って立つべく、ディーナと黒の魔導師ステラ・ブラヴァツキの補佐に交互につくことで、さまざまな経験を積むよう命じられていた。
「そうは言っても、生徒に実習で作らせた魔法チョコは学院運営のための貴重な財源なんですよ」
嘆くディーナの目の前には、売れ残りのバレンタインチョコの箱が山積みになっていた。
「返品がもっと早ければ、クッキーにしてホワイトデイに回す方法もあったんですけれど」
人の世のある限り、恋愛は商売の種である。
バレンタインチョコをはじめとする、魔法学院生が実習で作った恋愛グッズ、おまじない、占い商品は、WIZ-DOM財政の基幹商品であった。
極星帝国の侵入以来の、その恋愛グッズの不振に、WIZ-DOMの財政担当であるディーナのため息は重い。
混乱した世界情勢のため、クラリス・パラケルススの手になる戦闘用ゴーレムなどは売れているものの、その購入先は限られている。
「……とりあえず、人手を集めて溶かし直します? 何に使うかはともかく」
リサは重い空気を振り払うべく、自分でもその場しのぎだと思う提案をした。彼女自身も魔法戦闘が本分であり、こういった方面には疎いのだ。
「いつまでも保つというものでもありませんから、何に使うか決まるまではそれも意味がありません」
ディーナはかぶりを振った。
「ディーナ先生っ」
再び重いため息をついたディーナの背後から、ルツィエが声をかけた。
「ルツィエ。マギナにルカも。どうしたんだ? しかもその格好……」
リサはルツィエの後に続いている、マギナとルカの埃だらけの姿に目を丸くした。
「チョコが残って困ってるっていってたでしょう? これ使うといいんじゃないかと思って」
そういって、ルツィエは『恋の媚薬』を掲げて見せた。
「何かしら? 古文書ね」
ディーナは『恋の媚薬』をしげしげと見つめた。
「媚薬について書かれた古文書です。しかも、超即効性の。魔力も必要だし、効果が強力すぎて封印されたみたいなんですけど」
マギナが補足した。
「まあ。三人ともありがとう」
ディーナは微笑んだ。
「でも、役に立つのは来年ね」
しかし、その笑顔から重さは取れていない。
「それがですね、この媚薬、チョコに混ぜると効果が飛躍的に高まるようなんです」
ルカは言った。
「どういうこと?」
リサは首を傾げた。
「ただでさえ強力すぎて忘れられた媚薬を、さらに強力にしてどうすんの? ヤバすぎじゃない?」
「ヤバいよねぇ。だから、戦闘で使うといいんじゃないかな? 敵にね」
ルツィエはあの、小悪魔の笑みを再び浮かべるのだった。
次回予告
アイドル血風録